logo

セラ

~ フィギュア少女の物語 ~

「100回折れてもくじけない」

夜11時。アイスリンクに残っている人はいないか、警備員さんが確認する音がする。

「おじさん。ここにいます!」

元気よく声を上げると、警備員さんがこちらに顔を向ける。私は両手を振った。

「【氷の星】は四方八方が氷なのに、ここで練習しなきゃならないのか?」
「あと少しだけやって帰ります」
「そうか。あまり遅くならないように。いいね?」
「はい!」

遠ざかる警備員さんの後ろ姿をしばらくぼんやりと眺めてから、私はスケート靴のひもを結んだ。

「私ならできる!」と叫んで、両頬をパチン!とたたくと、たちまち頬が赤くほてる。

毎日、自分にかける呪文。

(フィギュアスケートは何と言っても音楽が大事だけれど、ここは音楽をかけてくれる人がいない。このくらいは自分で何とかしなくちゃいけないよね。今日は何を歌おうかな?どうせなら、著作権料が高くてとても使えない曲にしなくちゃ)

ミュージカル「キャッツ」の挿入歌!

リンクの中央に立つ。
何事もなかったかのように優雅な演技開始の体勢を取る。歌を歌いながら表情を作るのは簡単なことではないけれど、練習を重ねるほど感情表現が豊かになるのを感じる。
しばしの静寂のあと、歌と共に始まる演技。ステップシークエンスが終わり、スパイラルシークエンスに入る。

(そうだ。フィギュアはバランスだ)

体のバランスを利用するスパイラルは、常に一番の自信を持って演じたいのだけれど…

ああっ?

重心を失い転倒してしまった。歌声も途絶えてしまうと、がらんとした空間、冷たい空気、何も聞こえてこないこの場所が、やけに空虚なものに感じられる。

「よりによって、大好きなクライマックスで途切れてしまった」

見ている人は誰もいないのに、今日はなぜか、自分の姿を恥ずかしく思った。

***

「こんにちは。セラです。座右の銘は〈百折不撓〉、〈100回折れても決して曲がらない!〉です。
   いつかかならずトップに立ってみせます」

これは呪文の後半戦。
気分は乗らないけれど、運動後のストレッチのように、かかさずやっているルーティンだ。広いアイスリンクに、私の声がこだまのように響いている。誰もいないけれど、観客の歓声に応えるように、優雅なポーズで挨拶した。ところが、お辞儀を終えて頭を上げた瞬間、どこからか聞こえてくる拍手の音。

「えっ? 誰?」

危うく後ろにひっくり返るところだった。慌てて周囲を見回しても、誰もいない。

『こんにちは』
「誰ですか?」

これは夢? 夢ならさっき転倒した時に覚めていないとおかしくない?

『私は別の世界に属する者よ』
「どこにいるの? どこで話しているんですか?」

いくら見回しても誰もいない。はっと我に返り、アイスリンクを出ようとしたその時、鏡のように輝いていたリンクの下に、信じられない光景が広がった。

(あ…、あれは? 私だわ…)

7歳の幼い私がスケート靴を履いて氷上を歩いている。12歳になった私は氷上をうろうろしていて、14歳の私は「サラダを食べたくない」と不満をこぼしている。

(どうしてリンクに私の過去が見えているの?)

15歳の私はけがで苦しんでいる。そして、まさに今の私が氷上に立っている。
優雅なポーズを取って演技を始め、ミュージカル「キャッツ」の挿入歌を歌っている。もうすぐスパイラルをして転倒する、そう予想して見ていたら…

…?

転倒せずに演技を続けている…?

(どうして… どうしてこんなことが?)

フィギュアスケートを始めて以来、初めてのノーミス演技が終わった。

『私と一緒なら…』

ふぬけたようにリンクを眺めていると、また声が聞こえた。少女の声だ。

(一体、誰なの?)
『1人ではできないことが、できるようになるわ』

信じられないし理解もできないけれど、確かな事実が一つだけあった。たった今リンクに映し出されたのは、私自身も一度も見たことのない私。その姿は、誰よりも幸せそうに見えた。

『あなたの歌声を聴いたわ』

いつの間にか警戒心は消えつつあった。リンクに映し出されるシーンはまた変わり、そこには見たことのない私の姿があった。ステージの上で歌っている。
私のステージに熱狂する人々。見慣れない光景だったけれど、なぜか興奮を抑えられなかった。

『トップに立ちたいと言っていたわね。私と一緒なら、あなたはアイドルになってトップに上り
   詰める機会を手に入れられるわ』
「どうやって?」

私はスポーツ選手として生きてきて、代償のない挑戦はないということを学んだ。この甘い誘惑にも、何かしらの代償は存在するだろうと本能的に感じた。

『もちろん、消滅のリスクはある』

やっぱり。でも、目の前の光景が、幸せな私の姿が、その代償が何であろうと挑戦しろと、私に言っている。まだ状況が把握できていないけれど、それでも挑戦してみたい。

「私は何をどうすればいいんですか?」

そう質問を口にした瞬間、大きな音を立ててアイスリンクに亀裂が入った。びっくりして逃げようとすると、温かい声が聞こえてきた。

『恐ろしいのは、しばしのこと』

目をぎゅっと閉じて繰り返した。

(100回折れてもくじけない…、100回折れてもくじけない―、100回折れてもくじけない!)

恐ろしさが消えると、リンクが溶けて青い光に変わっていた。私は滝のような水にのまれ、どこかへ流されていた。でも、誰かと一緒にいるような感じがして、恐ろしさは次第にときめきへと変わっていった。




~ フィギュア少女の物語 ~

「100回折れてもくじけない」

夜11時。アイスリンクに残っている人はいないか、警備員さんが確認する音がする。

「おじさん。ここにいます!」

元気よく声を上げると、警備員さんがこちらに顔を向ける。私は両手を振った。

「【氷の星】は四方八方が氷なのに、
 ここで練習しなきゃならないのか?」
「あと少しだけやって帰ります」
「そうか。あまり遅くならないように。いいね?」
「はい!」

遠ざかる警備員さんの後ろ姿をしばらくぼんやりと眺めてから、私はスケート靴のひもを結んだ。

「私ならできる!」と叫んで、両頬をパチン!
 とたたくと、たちまち頬が赤くほてる。

毎日、自分にかける呪文。

(フィギュアスケートは何と言っても音楽が
 大事だけれど、ここは音楽をかけてくれる人が
 いない。このくらいは自分で何とかしなくちゃ
 いけないよね。今日は何を歌おうかな?
 どうせなら、著作権料が高くてとても使えない
 曲にしなくちゃ)

ミュージカル「キャッツ」の挿入歌!

リンクの中央に立つ。
何事もなかったかのように優雅な演技開始の体勢を取る。歌を歌いながら表情を作るのは簡単なことではないけれど、練習を重ねるほど感情表現が豊かになるのを感じる。
しばしの静寂のあと、歌と共に始まる演技。ステップシークエンスが終わり、スパイラルシークエンスに入る。

(そうだ。フィギュアはバランスだ)

体のバランスを利用するスパイラルは、常に一番の自信を持って演じたいのだけれど…

ああっ?

重心を失い転倒してしまった。歌声も途絶えてしまうと、がらんとした空間、冷たい空気、何も聞こえてこないこの場所が、やけに空虚なものに感じられる。

「よりによって、大好きなクライマックスで
 途切れてしまった」

見ている人は誰もいないのに、今日はなぜか、自分の姿を恥ずかしく思った。

***

「こんにちは。セラです。
 座右の銘は〈百折不撓〉、〈100回折れても
 決して曲がらない!〉です。
 いつかかならずトップに立ってみせます」

これは呪文の後半戦。
気分は乗らないけれど、運動後のストレッチのように、かかさずやっているルーティンだ。広いアイスリンクに、私の声がこだまのように響いている。誰もいないけれど、観客の歓声に応えるように、優雅なポーズで挨拶した。ところが、お辞儀を終えて頭を上げた瞬間、どこからか聞こえてくる拍手の音。

「えっ? 誰?」

危うく後ろにひっくり返るところだった。慌てて周囲を見回しても、誰もいない。

『こんにちは』
「誰ですか?」

これは夢? 夢ならさっき転倒した時に覚めていないとおかしくない?

『私は別の世界に属する者よ』
「どこにいるの? どこで話しているんですか?」

いくら見回しても誰もいない。はっと我に返り、アイスリンクを出ようとしたその時、鏡のように輝いていたリンクの下に、信じられない光景が広がった。

(あ…、あれは? 私だわ…)

7歳の幼い私がスケート靴を履いて氷上を歩いている。12歳になった私は氷上をうろうろしていて、14歳の私は「サラダを食べたくない」と不満をこぼしている。

(どうしてリンクに私の過去が見えているの?)

15歳の私はけがで苦しんでいる。そして、まさに今の私が氷上に立っている。
優雅なポーズを取って演技を始め、ミュージカル「キャッツ」の挿入歌を歌っている。もうすぐスパイラルをして転倒する、そう予想して見ていたら…

…?

転倒せずに演技を続けている…?

(どうして… どうしてこんなことが?)

フィギュアスケートを始めて以来、初めてのノーミス演技が終わった。

『私と一緒なら…』

ふぬけたようにリンクを眺めていると、また声が聞こえた。少女の声だ。

(一体、誰なの?)
『1人ではできないことが、できるようになるわ』

信じられないし理解もできないけれど、確かな事実が一つだけあった。たった今リンクに映し出されたのは、私自身も一度も見たことのない私。その姿は、誰よりも幸せそうに見えた。

『あなたの歌声を聴いたわ』

いつの間にか警戒心は消えつつあった。リンクに映し出されるシーンはまた変わり、そこには見たことのない私の姿があった。ステージの上で歌っている。
私のステージに熱狂する人々。見慣れない光景だったけれど、なぜか興奮を抑えられなかった。

『トップに立ちたいと言っていたわね。
 私と一緒なら、あなたはアイドルになって
 トップに上り詰める機会を手に入れられるわ』
「どうやって?」

私はスポーツ選手として生きてきて、代償のない挑戦はないということを学んだ。この甘い誘惑にも、何かしらの代償は存在するだろうと本能的に感じた。

『もちろん、消滅のリスクはある』

やっぱり。でも、目の前の光景が、幸せな私の姿が、その代償が何であろうと挑戦しろと、私に言っている。まだ状況が把握できていないけれど、それでも挑戦してみたい。

「私は何をどうすればいいんですか?」

そう質問を口にした瞬間、大きな音を立ててアイスリンクに亀裂が入った。びっくりして逃げようとすると、温かい声が聞こえてきた。

『恐ろしいのは、しばしのこと』

目をぎゅっと閉じて繰り返した。

(100回折れてもくじけない…、
 100回折れてもくじけない―、
 100回折れてもくじけない!)

恐ろしさが消えると、リンクが溶けて青い光に変わっていた。私は滝のような水にのまれ、どこかへ流されていた。でも、誰かと一緒にいるような感じがして、恐ろしさは次第にときめきへと変わっていった。